走馬灯という言葉を聞いたことはありますか?
走馬灯という言葉単体ではなく「走馬灯のように」という形で小説などで目にする機会も多いかもしれません。
しかし実物の走馬灯を見たことがあるという人は現代では少ないのではないでしょうか。
見たこともないのに「走馬灯のように駆け抜けた」と言われても様子を想像できないという方も少なくないでしょう。
臨終の際の走馬灯体験については、事故などで九死に一生を得るような経験のあった人だけが体験する現象です。
その意味での走馬灯を見たことのある人は更に少ないことは間違いありません。
今回は小説などで目にすることも多い言葉である走馬灯という言葉について。
走馬灯という言葉の意味と使い方、そして実際の走馬灯とはなぜ起こるのかというのを解説していきたいと思います。
走馬灯という言葉の使い方と意味は?
走馬灯という言葉ですが、それ自体は江戸時代などに使用された実在する照明機器です。
回り灯篭という蝋燭を使った照明機器で、上昇気流を利用して蝋燭の周りの和紙などを張ったカバーが回転するものを走馬灯というのです。
回転するカバーに馬の切り絵が施され、馬が走るような影が外側に映し出されることから走馬灯と呼ばれました。
今では照明機器としての灯篭も使われることはありませんし、目にすることがあっても日本庭園などに設置された石灯篭などでは回り灯篭を想像することも難しいかもしれません。
・スピードとしては緩やかに、様々な情景が流れるように思い浮かぶ。
・鮮明な様子ではなく、影絵のように不鮮明で場面を切り取った形で連想される。
・映し出す元になるのは蝋燭であり、ろうそくの火が消えると同時に走馬灯も消える。
こういった特徴から、臨終の際に過去の情景を思い出す様子を比喩したのかもしれません。
走馬灯のように駆け巡るという表現では、駆けるという言葉が持つ早そうなイメージではなく回り灯篭の馬が進む様子から駆けるという言葉が使われているのでしょう。
特に蝋燭は落語の死神などでも命を表すものとされており、ロウソクが消えると走馬灯も消えるという点で死との関りを表現しやすかったのかもしれません。
初めに走馬灯を臨終の際に想起する記憶として表現した作家は素晴らしい表現を得たと感じたかもしれませんね。
臨終に際してみる走馬灯とは?なぜ起こる?
最近では走馬灯といえば「臨終に際してみる、過去の記憶を瞬時に想起する現象」を指す言葉となっています。
回り灯篭としての走馬灯が使われることもなくなり、当然と言えば当然かもしれません。
そんな走馬灯ですが、臨死体験をした人の中には走馬灯を見たという人が少なからず存在します。
海外においてはパノラマ記憶などとも呼ばれ、人生の中で印象的な場面を、写真のように場面ごとに、かつ瞬間的に想起するという内容であり、日本語の走馬灯と同じものと考えて良いでしょう。
臨死体験の中で走馬灯を見た人は、共通して時間感覚が長くなるという認識を持つようです。
その長くなった時間間隔の中で、過去の記憶を思い出すのです。
これは科学的にもある程度説明できるものです。
生物は死の危険を感じたとき、脳の働きが最大限になります。
ゴキブリは死の危険を察知するとIQが瞬間的に人間を超える、などの話を聞いたことのある人はいるかも知れません。
瞬間的な生存の為に消化・吸収などの内蔵機能などは低下し、アドレナリンが多量に分泌されて痛みを感じなくなるなど。
実際に死ぬの危険に晒された人体には多くの変化が現れます。
その「生き抜くことに全神経を使っている状態」において走馬灯を見るのです。
生き抜くための手段を過去の記憶に求めている、死の恐怖から逃れるために楽しかったことを思い出すなど、走馬灯の理由には様々な考えがあります。
走馬灯の理由が完全に説明されているものではありませんが、時間が長くなるという感覚についてはゾーン体験やフロー状態という考え方で説明できます。
強く集中した状態において時間間隔がなくなるという現象は科学的にも説明されており、野球選手が集中して打席に立つ際にボールがスローに見える話などは有名です。
この説明を裏付けるように、病気や自殺などで予期された死よりも事故などの予期せぬ死の危険の方が走馬灯を見やすいことも、過去の研究から明らかになっています。
予期せぬ死の危険に対する人体の反応として強い集中状態になり、走馬灯を見ることがあるということは確かなようです。
まとめ
走馬灯とは、回り灯篭という蝋燭を使った照明機器で、上昇気流を利用して蝋燭の周りの和紙などを張ったカバーが回転するもので、回転するカバーに馬の切り絵が施され、馬が走るような影が外側に映し出されることから走馬灯と呼ばれていたようです。
走馬灯を見るという体験は、死の危険を感じるときにできることなので、故意にすることはできませんが、人類の神秘ですね!
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